義母の同級生が死去したので、葬式に出る為に大子まで行くというので、妻が送迎。
それで車を貸せというので、清掃、しっかりと清掃した。
フロントガラス等ピカピカに磨いた。
妻の車は息子が病院へ行くので使うので、私のを貸せという。
パジェロを運転するのは恐いのだそう、息子も妻も。
義父母の車は大田の義妹宅にあるのだが、取りに行くのが面倒なのだそう。
義父母の運転免許返納に賛成し、必要があればいつ何時でも送迎すると約束した反作用だろう。
義母の同級生、70年前か、しかし、唯一の友人なのだそうだ。
大子、当時の村の名前は忘れたが、そこから水戸の学校まで二人で汽車で通ったそう。
駅までは下働きの人が送り迎えしたそうだが、これ絶必だと思う。
今も昔も駅が同じ場所にあるなら、駅までどうやって移動したのだろうと思ってしまう程、遠い。
馬車にでも乗ったのだろうか、馬にでもまたがったのだろうか。
亡くなった方は学校の先生に、義母は就職する事もなく家事手伝いで、義父と結婚。
義母は浮世離れした感覚を未だにひこづっていると言うが、先生の方は、すごく普通だったと
妻は云うが、妻もどちらかと言うと、義母と変わらないので、眉唾だ。
先生とは、結婚しだちの頃、一度、会ったと思うが、全く顔かたちが記憶にない。
先生は養女なのだそう、養女に出した親戚は、私の苗字と同じ。
結局は、敗戦による農地解放で、財産を失ったそう、義母の実家もそうだが、山は残ったので
木を売っていたらしい。
時代が消えていくとでも云うのか、、、、過去が忘れ去られるのは、いい事なのだろう。
本人の遺言で、葬儀はお寺でやるそう、葬祭場は願下げだと。
自宅でやればよいと思うが、昔は皆、お寺でやっていたと妻は言うが、そういう記憶は私にない。
妻の祖母が亡くなった時は、自宅でやった。それも神式だった。
という事は、妻の宗派は神道、私の葬式もすると神式になるのだろうか、神式だと位牌がない。
江戸時代からの年代物の過去帳はあるが、位牌よりは場所をとらなくていいとは思う。
妻の実家にも位牌がないが、それでは寂しいと義父が仏具店に頼んで造ったという2つの位牌
は有るが、そんなものでいいのかなという気持ちがあるのだ。
そういう事も含めて、それで、私も参列(見学)したかったのだが、時間的に無理なので諦めた。
私は法華経、50何年か前、敬台寺に連れて行かれて、何とかした。
一族の墓もそこにある。
で、私が死ぬと妻は、葬儀を真言宗でやりそう。
するとだ、多分、先祖の墓には入れない、別に入りたくもないが、いいのかな~と思う。
いろいろ問題を思い起こしてしまった次第。