退職する時に渡され、保管していたが、そろそろ廃棄してもよいかと思っているが
中に書かれているデータを見ると被爆なし。
被爆はしないのは当然か、ふげんの中央制御室以外に入ったのは1回だけ。
どこかに書いたが連合事務所の所長(名前、忘れてしまった)に騙されてというか、そういう感じで
入ってしまった。同行した放管の人が、”よく同意したね”と驚いたぐらい迂闊に。
この話を聞いて、彼の後ろを歩き、”配管等に触らないほうがいいですよ”と言われ、早々に逃げ出した
のを思い出す。
”事故ってたら死んでましたよ”といわれ、唖然とした程度の素人だったのが懐かしい。
そういう場所に行くのは、そういう職種の人で、私が行くような場所でなかったのだ。
ガードに放管が同行したんだろう、大体迷うし。
手帳の若い時の写真、女性にもてたのは当然かな~、今は面影も感じられない。
敦賀にいたのは、手帳から見ると、S53.05.22からS54.03.27らしい。
被爆量は、昭和53年度末集積線量 ー(11X)ミリレム とあるが、どういう意味なんだろう。
上記期間、妻は敦賀で一緒に住みたかったらしいが、拒否し、単身赴任。
楽しかったな~、時間はあるし、金もあるしで、あちこち遊びに出かけたし。
今となれば、連れて行けば良かったとは思う。
健康診断は3ヶ月毎に53年3月9日から57年4月26日まで受けている。
その後も、原子力関係の仕事をしていたが、電離放射線健康診断はやめた。
止めるといえる立場になったんだろう。
しかし、原子力は昭和45年から、島根1号に関わっていたのだが、手帳はない。
島根は常駐しなかったのと、中央制御室が管理区域でなかった(?)からだろうか。
その後は、福島の4号炉、壊れてしまったけど、これはアメリカ出張があり同僚ともども楽しんだ。
設計だけで、現地はなかった、皆な行きたかったので、はじかれた感じ。
GEの技術者用のゲストハウスに寝泊りしたようだから、お客さんだよね。
同僚で放射線管理手帳を持っているのは、私だけかな~。
持っているというより、持たされたが正しい表現かな。
当然、部下には持たせない方向で安全確保したつもり。
今の面影全然ないので、写真は加工なしで載せた。