HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

戦争を後世に伝えるという難しさ

「就職難解消に自衛官増員を」という雑文を書いている時、ふと思い出したことがある。

母が

「自分の父は、青島攻撃(?)だったかに参加し、勲章をもらった」

「義父(私の祖父)は、志願せず、腰抜けだ」

という趣旨の話を前後の記憶はないがした。

母が祖父を嫌っていたのは、子供ながら分かったのだが、「え~」と思ったのも事実だ。

母の父が立派で、父の父が駄目だとはその時も今も思わない。

もう50年以上前の話だが、突然に思い出す。

フラッシュバックというものなのだろうか。

第二次大戦の敗戦でも「もう戦争はこりごりだ」という言葉は一族から聞いた記憶がない。

有るのは、「農地解放で農地が殆どなくなった」という言葉だ。

一族には人的被害がなかったからかも知れない。

祖父、祖母から聞いたのは、「国のために頑張れと送り出したが、心配で仕方なかった」という

話だ。父は1人子なのだから当然と思う。

これはすんなり受け入れられた。

父から聞いたのは、異動で名前を呼ばれた時に一歩前に出なかったそうだ。

その時に同姓の方がいて、その方が一歩前にでたそうだ。

其の方は戦死したそうだ。

この話を聞いた時もは、「卑怯だ」と思ったが、「良かったね」と言った。

父がにこっとしたように感じた。

多分、重荷だったのだろう。

祖父、祖母の真の意向が父に伝わっていた故の行動だったのだろう。

父は霞ヶ浦で飛行機の整備兵をやっていたらしいので、戦闘の経験等ないのだろう。

空襲は受けただろうが、怖いとかいう話も聞いたこともないが、「負ける」とは感じていたそうだ。

義理の祖父(母の父)からも戦争の話は聞いたことがない。

青島で戦った人からすれば、空襲などなんともなかったのかも知れない。

戦争の話を聞いたのは、30歳過ぎ、妻の父からだ。

妻は父から戦争の話は私以上に聞いているらしいが、悲惨な話は聞いていない。

よく両者から聞くのは、艦の種類は思い出せないが、軍艦の砲手を義父はやっていたそうで

馬鹿な上官が、撃て撃てというだけで、計算させてくれないのだそうだ。

当然、当たるはずもなく、ただ撃つだけ、これでは戦争に負けると思ったそうだ。

上官より部下の方が優秀だったのだから仕方がないが、「よく殴られた」のだそうだ。

義理の父が乗っていた艦は、被害もなく終戦を迎えたそうだから、死者とか負傷者を見た

事もないのだろうから、一言で言えば、勇ましい話ばかりだ。

先祖伝来の墓に行くと、戦争で戦死した人の墓石があるので、死んだ人はいるのだろうが、

どうだこうだという話はない。

一度、聞いた事はあるが、「うーん」というだけ、多分、知らないのだろう。

「就職難解消に自衛官増員を」というブログを書いた一つの理由は義父が兵隊に行って

良かったと言っていることだ、当然、志願兵として行っているのだが。

義父は長男で、妹が1人、弟が2人いるので、跡継ぎという面では問題がなかったのだろう。

軍国、少年だったのだろうが、戦後も後悔はしていないようだ。

同じような趣旨のブログを何処かで書いたが、思い出せない、探すのも面倒なのでしない。

故に、多少違いがあるかもしれないが、単なる記憶で書いているだけの文章。