就職は、教員採用試験と、それに滑った時の為、メーカーを受験。両方とも合格。
落ちたのは、大坂の消火器会社、ここは教授の紹介で行ったのだが落ちた。
もう一つは駅前の公園近くにある名古屋の女子高、今思えば落ちた理由は風袋だろう。
結局、行き違いがあり、メーカーへ就職し、日立市へ移動、此処で一生を過ごすことになってしまった。
当時の主任、課長、部長がやがて、副社長、専務、常務という幹部になるような方々で、忙しくはあった
が楽しかった。
この時代、すばらしい同僚や上司にめぐり合えたが、もの凄く勉強させられた。
21時過ぎまで仕事をし、その後に飲み屋にいき、2時ごろまで飲み、翌朝、遅刻もせずに
出社していたのだから、体力に恵まれていたのだろう。
おかげでお金は何時もすっからかん、当時はカメラを持ってあっちこっちに遊びにも行っていた。
日鉱に勤めていた飲み友達と、芸者遊びをして、2人のボーナスが一晩でパー。
ともかく仕事もしたが遊んだ。
彼とは、パスポートの関係だったと思うが、台湾に技術指導に行っている彼の知人を訪ねて遊びに行き、
彼は女性と私は一人旅、日本語が通じたので、予約もなく一週間ぐらい写真三昧だった。
この前後だろうアメリカに留学したのは。
滞在したのはアリゾナ州ツーソン、毎日勉強ばかりでちーとも当時は楽しくなかった。
今思えば、同じ課で6人も社費留学をしている。
時代の先端をいく技術開発をしていたのと、課長に力があったのだろう。
全社で突出した残業時間だったそうだが、それを認めた部長、工場長も凄いと思う。