HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

若かった頃の思い出話し(7)

就職は、教員採用試験と、それに滑った時の為、メーカーを受験。両方とも合格。

落ちたのは、大坂の消火器会社、ここは教授の紹介で行ったのだが落ちた。

もう一つは駅前の公園近くにある名古屋の女子高、今思えば落ちた理由は風袋だろう。

結局、行き違いがあり、メーカーへ就職し、日立市へ移動、此処で一生を過ごすことになってしまった。

当時の主任、課長、部長がやがて、副社長、専務、常務という幹部になるような方々で、忙しくはあった

が楽しかった。

この時代、すばらしい同僚や上司にめぐり合えたが、もの凄く勉強させられた。

21時過ぎまで仕事をし、その後に飲み屋にいき、2時ごろまで飲み、翌朝、遅刻もせずに

出社していたのだから、体力に恵まれていたのだろう。

おかげでお金は何時もすっからかん、当時はカメラを持ってあっちこっちに遊びにも行っていた。

日鉱に勤めていた飲み友達と、芸者遊びをして、2人のボーナスが一晩でパー。

ともかく仕事もしたが遊んだ。

彼とは、パスポートの関係だったと思うが、台湾に技術指導に行っている彼の知人を訪ねて遊びに行き、

彼は女性と私は一人旅、日本語が通じたので、予約もなく一週間ぐらい写真三昧だった。

この前後だろうアメリカに留学したのは。

滞在したのはアリゾナ州ツーソン、毎日勉強ばかりでちーとも当時は楽しくなかった。

今思えば、同じ課で6人も社費留学をしている。

時代の先端をいく技術開発をしていたのと、課長に力があったのだろう。

全社で突出した残業時間だったそうだが、それを認めた部長、工場長も凄いと思う。