HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

若かった頃の思い出話し(1)

幼稚園の記憶は、あるようでない。

場所は昨年、弟のアパートから、実家があった場所経由で歩きで間違わずに行けた。

富田小学校から道路1つ離れた場所なのだから間違うはずはないか。

小学校時代の友人で印象強いのは、靴職人の息子だが、苗字も思い出せない。

よく覚えているのは、学校に親父さんの商売用ナイフを持ってきて、よく見せてくれたからだ。

平べったいナイフだが、それで机を削ると実によく切れた。

もう一人はストリップ劇場の息子、見に来いとちょくちょく誘われたが、行かなかった。

回りの同級生が行くなという、理由は「親父がヤクザ」なんだそうだ。

更にもう一人は頭の毛が抜けてしまった材木屋の息子、金属製のモデルガンを学校に持ちこみ

遊んでいた。

ヤクザ、鉄砲、ナイフに興味がというか何ともないのは、その頃に刷り込まれた影響なのだろうか。

よく覚えている恩師は5年生の時の担任の船越教諭、家も近く、10年後ぐらいに母親が嫁を紹介して

欲しいと頼むと弟の方は駄目だが、私の方ならばと引き受けてくれたそうだ。

親から写真と履歴書を送れと要求してきたが、送らなかった、送っていたら今頃は徳島住まいだろう。

先生が私の事を覚えているのは、多分、6年生の時に担任ともめ、単独で校長に文句を云いに

校長室まで行ったからだろう。

一言で言うと、おませな扱い難い子供だったのだ。

中学時代の恩師は、小泉教諭。もう30年も前にお亡くなりになった。

陸上競技部に属していたので、その時の顧問でもあり、三年生の時の担任だ。

体が大きかったので、相撲部にも臨時で入れられ県大会にもでたが、勝った記憶がない。

相撲部の顧問は生物の先生で、名前は、、、、思い出せないが、いいお年だった。

ふんどしを着ける経験がこの時に出来たが、以降はない。

柔道も剣道もクラブの人とやったが、勝ちはしないが、負けもしない。

喧嘩のセンスがあるのだろう。

今もあるのかどうか不明だが、徳島市の全中学校生が集り陸上競技場で大会を1回/年

あったが、そこでの短距離走の常勝者であったのだ。

高松に四国4県の大会にも徳島代表で出た、ともかく走るのは早かった、逃げ足も当然に速い。

小泉先生には世話になったが、急逝されたので、卒業後にお会いすることもなかったが、

高校教員採用試験に合格し、名簿に名前が載った時、大変喜んで頂いて実家に連絡して来たと聞いた。

当時、教育委員会の偉いさんであった先生の推薦もあったのだろう採用の連絡が教育委員会よりあったが、

その時、日立で工場実習中、面白くて、教員にならなかった。今にして思えば大失敗だ。

大失敗といえば、不合格だった大学の医学部薬学科を卒業した方とひょんな事で知り合い暫く

付き合っていたが、岡山と茨城、携帯電話もない時代、彼女と仕事の選択で御互いに仕事を

選んでしまったことだ。元気なのだろうか。同い年なのでよぼよぼかな。

キャビネットの整理で手紙を見て気付いたのだが、

彼女の氏名、他のだれかと混同しつい最近まで間違って覚えていた。

間違って覚えていた岡部ってだれだろう、全く思い出せないのだ。