7月4日~5日と常陸太田市役所へ出向き、父方の改製原戸籍を19枚入手した。
今、読んでいる所だが、正直よく分からないというのが感想。
古いので名を書いてもよいだろうという判断で、名は利介と云う。
この方が戸籍から追える一番古い人だが、生年月日は不明。
その妻の名がまつと言い、文政7年(1824年)生まれだ。
弘化2年(1845年)に鈴木家より嫁いできている、21歳だ。
この夫婦の間に長女きちが嘉永4年(1851年)に生まれている。
この長女きちが古徳家四男を養嗣子としてもらっている。
入籍したのが明治元年(1868年)、まつが44歳の時だ。
長女きちと養嗣子が婚姻したのが、明治元年(1868年)、17歳だ。
養嗣子は21歳だ。男21歳、女17歳だ、今なら早すぎるだろう。
この二人の間に2男1女が生まれている。
ここまでは分かりよいが、その後はごちゃごちゃだ。
きちが41歳で死亡、その後に、養嗣子が再婚。
再婚相手の連れ子を入籍し、更に、再婚相手の兄の子の従妹の子を養子にしている。
何故だろう。
養嗣子とその後妻の間に2男が生まれて、家が4つに分かれたと妻から聞いていたが、違う。
戸籍上は男子が生まれたという記載どころか、子が生まれたという記載もない。
分かれた4家のうちの2家とは血縁がないと話していたが、それは正しい。
これ以上調べるのは2家に戸籍の提供をお願いすればよいのだが、頼み難いで止め。
養嗣子ときちの間に生まれた2男1女に附いて戸籍を読もうと思うが、書きなぐったような字で
読み難い。戸籍吏員(こせきりいん)の能力によるのだろう。
徳島の戸籍では弐拾壱日と書いてあるのを、茨城では廿一と書いてあるようだ。
○○郡△△村を仝郡仝村と書いてあるし、参月拾日をこちらでは三月十日と書いてある。
家族との族柄も欄はあるのだがほとんど書いてない。
地域性なのかな。