HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

死への道程と私の記憶喪失

何処から記録すべきか迷うが、死の直前26時間について書くと参考になるかと。

前提として、緩和ケア入院、当然、静態情報モニターなし、モルヒネと輸液の投与のみ。

時々、ステロイドも点滴していたが頻度は不明。

妻の場合は突然呼吸がとまった、1秒前は顎呼吸だが4秒毎にしていた。

これを見て死んだか否かを判断するしか術はなく本当に四六時中みていたので

凄く疲れる、モニター替わりは看取り者(今回は私と娘)。

死亡判断は医者が実施、故に、私が死んだと思った時間と死亡診断書の時間には

差がある、医者が医務室からくる時間なのだろう。

始まりは

10月31日の15時ごろ緩和ケアから電話、血圧が60台だというが

初めての連絡ではなく数日前にあったので、2回目だと思う。

たまたま、病院にいたので痛風診察後にかかりつけ医に血圧が60台らしいが危ないです

かと質問、厳しいという返事、すぐ行った方がよいかと質問すると、う~~ん。

診察室を出たあとに看護師さんがすぐ病院へ行けとアドバイス、従った。

先生の前では言えなかったのだろう。

もう記憶があいまいになってきたが、呼吸音はなく静かだった。

ただ、額呼吸?。

夜は泊まり込み。

夜勤明けの看護師さんに死期はまじか、今晩かなと言われたが、そんなに悪いという

印象もなし。

7時から16時頃まで額呼吸、体温は朝方37.7℃、夕方は37.1℃。

流石に異変に築いたのは、パルスオキシメーターの値がSPO2=111,PR=0

大体SPO2が111なんてないだろうし、PR(脈拍)=0もないがこれがSPO2=0、PR=0

SPO2=0、PR=0でトレンド線が平たく表示になるのだ。

看護師が吸痰したり、点滴を早めたりしたが変化なし、諦めた感じで処置終了。

血圧が60というのも機械測定ではなく手の感覚、手技か、ようは機械では計れない。

義母が施設からヘルパーさんに連れらてて見舞いにきた、もう面会時間等はない。

義母が帰宅後に妻が携帯電話で孫の声を聞かせている時に呼吸停止。

今思えば、もう死ぬかもという妻に義母と面会させたり、孫の声を聞かせたり

今思えば異常で残酷だ。死期を早めたかも、でも、1晩分か。

1日の夜も寝ずの番をしてると私が倒れただろう。

76歳(私)と46歳(娘)の違いか、今日3日、ピンピンしてた、私は疲れが取れず

ぐったり。

一応書いたが前後が違ったりしているだろう。

葬式準備も終わったが記憶が数日で曖昧にと思う。

4日、今日は葬儀屋がドライアイス交換にくる以外なにもなし、休息日になってほしい。

昨日だから3日か、義母が通帳とキャシュカードを出せと言っていると娘が云うので

義母に見せ、そのあとで娘に取り上げられた。

義母の口座から下ろし保管していた60万円から香典代と生花代を水から出した。

保管していた現金と通帳の引出記録はバッチリと一致、だって、これ義母の

葬式代の為に、20万円ずつ引き出していたお金。

娘がちゃんと帳簿に付けて管理する(できる)とは思えないので揉めそう。

知らん。