HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

人間関係の濃さを誤解した根拠による犯罪

友人、家族、同僚、親戚、同期、同窓等の人間関係に期待しすぎているから、自己が阻害されて

いる、無視されているとか孤独だとかと思込み、それを打破する為に犯罪に走ってしまうのだ。

人間関係が濃いというような情報を巷で流しているのが、小説、テレビドラマ、漫画、評論家なのだ。

それらは特殊、特異的、お話だけの関係なのだが、一般だと思い込み自分だけが”寂しい状況”

にあると誤解してしまうのだ。

小説、テレビドラマ、漫画、評論家が言うような濃い関係がある人達もいるのだろうが、

ごくごく一部の閉塞した中で生きている人達だという事を発信しないのが問題なのだ。

自分のことでしか論証できないのだが、

小学校、中学校、高校時代の同窓等と会ったこともないのだが、当然なのだ。

親の住所が変わり、誰かが連絡しようにも連絡の方法がないし、電話というものが珍しい時代

に生徒時代を過ごしている上に現在住んでいる所も育った所から1000Kmぐらい

離れているので、偶然に会うという事もない、有ればそれは奇跡だろう。

大学時代の同窓には、40年間で1度、同窓会を岡山でやり、半分ぐらいがあつまったが、それきりだ。

唯一、大学に残った者と年賀状の交換が続いているのが成果というか残滓だ。

こういう状態にあるのが普通だと思うのだが、これではビジネスにならないから発信されず

逆のことばかりが発信されるのだろう。

生徒時代、学生時代の仲間と個人的に連絡しあっている人など、限りなく少ない。

それは当然で、成長と共に、置かれた境遇に関係して友人関係が変遷していくからだ。

中学生になれば、小学生時代の事を忘れ、高校生になれば、中学時代の友達とは疎遠になり

やがて切れる。大学生になれば、高校時代のそれは忘れ、就職すれば、大学時代の友人とは

話も合わなくなり、職場の同僚が友人となるが、友人と言っていいのかどうかは難しい。

ライバルであり、やがては上下関係ができるからだ。

生徒、学生時代のそれとは異質だろうが、この中で40年を過ごすのだ。

家族関係もそうだろう。

実家を離れた瞬間から、関係は疎遠になる。結婚すればますます縁遠くなる。

結婚式、葬式ぐらいが付き合いになる。

親子関係も同居していなければ同じ様に疎遠になるだろう。

この疎遠になるという事を安全弁と考えるかどうかが親子関係の問題の鍵なのだが、

唯一の問題は遺産相続、疎遠であればあるほど、遺産があれば有るほど揉めるように感じる。

「感じる」というのは既に両親はないのだが、限りなく疎遠、遺産もどうでもよいほどしかなく

弟に全額譲り渡し、全く揉め事もなく終わったので、分らないのだ。

親戚関係も親がなくなると、自然と細くなり切れた。

私は孤立しているのかも知れないが、全く不自由さ、不便さもないのだが、

以前、どこかで書いた望郷の念に駆られることはある、不思議だ。

昨夜、「ごくせん」を面白く見たが、ああいうクラスがあっても、やがて卒業し、就職すると

個々がばらばらになり、2年もすれば切れてしまう、それが現実なのだ。

あのようなドラマの放送の最後には、彼等のその後という編をつくり、親の会社を継ぎ、悠々な

者、その後に努力して自立、どうにもならず破綻してしまった者、同窓会をやるにも、多くが

隔地に住み連絡も途絶えたという現実に即したその後談を入れるべきなのだろうが、

それではドラマ仕立にならないのでやらないのだろうが、視聴者を最後は現実に引き戻す

義務があると思うのだ。

バーチャルを現実と錯誤させて、終了してしまうのは無責任だろう。

秋葉原で事件を起こした彼も、派遣仲間の中で、ナイフをあげる様な人がいたようだが、

彼が友人(同僚)だという認識をもてなかったのが不幸の始まりなのだろう。

殆どの人がそういう薄い関係の人を友人と称しているのであって、「ごくせん」のような学友は

いないという認識を持たなければ駄目なのだが、ドラマを真実に近い、それに類似した関係が

あると思い込んでしまうのだ。

一種のマインドコントロール

そこから不幸が始まる。

最後に、妻の場合は少し違う、学生時代、会社勤め時代の友人とそれなりに繋がって

いるようだが、実際にちょくちょく会っているのは、動脈隔離症で死に掛けた彼女だけだ。

後は思い出の中で付き合っているようだ。

新聞報道等で○○君、△△ちゃん、□□さんを見つけ、どうだこうだというので、それなりに

記憶しているのだろう。

実の家族とはよく付き合っている、地元なのだろう。

最後に、朝日新聞の[be]にサハラ砂漠、かって水と緑の大地だったとある。

こういうものだろう、人間関係とは、ある時点では富なものであったが、やがては砂漠と

変わる。当然、逆もあるのだろうから、その中でいかにやり過ごすかやり過ごせるかが

処世術となるのだ。