HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

暇つぶし

一日遅れだが、7/14(土)発行の産経新聞を読んでいると、面白い記事があった。

京都大学の教授が書いたものだが、意見が違うので、それをパロディ化してみたので紹介する。

当然に、原本を読まれることを期待する。何故なら、難解(意味不明)で未消化部分が多々あるからだ。

原本の題目は「宙に浮いた年金に翻弄される参議院選」とある。

以下は上記記事をパトディした文章だ。

1.参院選の本来の争点

今回の参院選は、いわゆる隠し続けられなくなった「年金問題」が大きな影響を与えている。

この問題に対する政府の責任及び対応を野党は追及し、国民が喝采を与えた為、与党もこの国民の

関心の高さを冷ます対応をせざるを得なかった。

更に、前防衛大臣の失言、二代に亘る農水大臣の不明朗な説明できない事務所経費問題など、

内閣にとって厳しい選挙となっている。

今回の選挙が「年金問題」や「大臣の任命責任問題」によって、その方向が決められるとすれば、

大変望ましいことであり、とりわけ参議院の性格にかんがみれば、それこそ「奉仕者たる資格のある

議員と統治能力ある内閣の再構築」というべき事態である。

参議院において、6年という長期にわたる任期が保障されているのは、国家の根幹にかかわる長期

的な展望を持った議論を期待し、それを担える議員を選ぶという趣旨である。

当然のことながら、生活保護という制度が形骸化した現在、「年金問題」は万人に憲法で保障された

「健康で最低限度の生活」が左右される重要なテーマである。

与党が、今回の参院選の中心的な争点に置こうとしたのは、政権が推し進める「戦後レジーム

見直し」であった。具体的には、既に着手した井戸端会議的な教育行政の見直しや、イラク北朝鮮

をめぐる我が国単独ではどうしようもない問題、そして憲法改正という姿なき無難なものであった。

しかし、不思議なことに、安保、天皇制、家長制度、男尊女卑等、肝心な項目が抜けたレジームなのだ。

2.二院制のジレンマ

現在の内閣では実現不可能な憲法改正を打ち出した内閣最初の選挙であり、しかも参院選の争点用

の目くらましとして、これ以上ふさわしいことはなかった。

年金をめぐる社会保険庁への不満や、大臣の自殺から始まる内閣の不首尾は明らかに政治への不信

というムードを陪乗させてしまった。

しかし、「年金問題」によって、憲法改正を含む「戦後レジームの見直し」というわかるようでわからない

論争点が隠れてしまうのは、「代表者によって国の根本問題を議論する」という参議院の理念からし

も問題はない。わかるようでわからない争点では代表者の選択のしようがない。

年金問題」を真摯に議論することは、幅広い議論展開が必要で参議院の存在理由への疑問解消に繋がる。

イギリスやアメリカは、上院はポプリズムや有権者の利益という「大衆的なもの」から一定の距離を置く

所にその価値を求めている。

従って、イギリスはいまだに上院は固定化した貴族や上層階級から代表者を選出し、アメリカでも下院と

は異なった「有識者の代表」という意味合いが強い。

その結果、アメリカにおいては、上院は下院と異なり、大統領による最高裁判所判事任命承認権や

国際条約批准承認権、大統領弾劾裁判権などを持つ、独自の立場に押しとめられている。

この立場での最近の大失態は、イギリス、アメリカ共にイラク戦争の開戦だろう。

参議院に独自の権限を付与せず、その代表性に独特の意味合いも与えていないため、今日の日本の

政治文化の中では、それは衆議院と同様にただ「国民の望むものを追求する」という好ましい状況下

にある。しかも、もし参議選で与党が過半数を維持できなければ、重要法案と云えども内容に瑕疵が

あると郵政法案のように参議院で拒否されるという本来の二院制の姿になるのである。

ここに二院制の重要性が一挙に顕在化する。

「第二院が第一院と一致すればそれは無用となり、一致しなければそれは有害である」という

シェイスの世俗的な言葉の信憑性が疑われてくる。

世情というものはイエスかノー、1か0というものばかりではないのである。

ただ残念なのは与党が衆議院で圧倒的な大多数を持っているので、郵政法案の如き、ジレンマが

再発する。

3.憂うべき民主政治

与党の過半数割れが政治危機だといっているのではない。憲法や教育、外交などの「戦後レジーム

にかかわる分ったようで分らない問題を争点としなければ、それでよい。

だが、パンドラの箱を開けたような「年金問題」に選挙の帰結を委ねることは、恐ろしい感じもする。

ただ、「年金問題」でなく「年金」への不安が高まっていることは無視できない。

この「ムード」は一昨年の衆議院選挙と同じようなものである。この一昨年、国民の意識は

変わらなかった。駄目なものは駄目なのだろう。

大企業や銀行の景気は回復し、特に大きな失政もなければサプライズもないが、それでも

支持率は右肩下がりである。人々の関心は規制緩和、市場化、自己責任に、年金や格差

社会への「嘆き」と「怒り」が重畳したのである。

そして、年金にせよ、医療にせよ、市場原理のみでは解決できる問題ではなく、国家の行末、

信頼感と相互扶助がその問題を解決するものである。

即ち、その制度への安心感が制度を支えるのである。国の安泰もそこにある。

「不安」は、市場競争や自己責任を進める割には、旧来の強制や義務化の影がちらつくという結果が

それを支えるはずの各種統計データが砂上の楼閣だと国民が気付きだしたことだ。

ここには、自己責任や市場主義による強いもの勝ち、早いもの勝ち優先政策か、社会の安定化か

という選択がある。しかし二者両立できないものではないだろう。

「年金」不安は、正直者が損をすることを背景にしている。しかし、与党は問題解決の設定に失敗して

しまった。結果として、「年金問題」という国家100年の計に勝敗を委ねることになるとすれば、優しい

民主政治というか、憂うべき民主政治と考えるかは各人の背景によるものだ。