HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

和歌山の延命治療中止事件

病院側の対応がよく分からない。

脳死と判定された患者の呼吸器を外して、何故、警察へ届けたのだ。

一般的に脳死と判定された患者からは心臓、肺等々が移植のために摘出されているのだから

不審死ではないだろう。

また警察もどういう理由で、殺人罪で送検したのだろう。

和歌山では脳死患者から移植用の臓器をとれないという警察の意思表示なのか?。

こういう疑問点から推測するに、脳死判定をせずに患者の家族に脳死だと担当医の私見

を伝え、呼吸器を外した故に殺人罪に問われたのではないのか?。

病院側は脳死判定もせずに呼吸器を外したので、不審死として届けたのではないのだろうか。

因みに、私は脳死という概念に非常な疑問を持っているというより、脳死をもって人の死とする

ことに反対の立場だ。

ここで云う脳死とは、心臓が停止した後、脳に血流が無くなり、脳細胞が酸欠で死滅したとき

の死とは違い、機械等で脳幹等の反応が検出できない時に脳死と云われている方だ。

以上のような疑念を持ったのは、仕事の合間に、5/23の茨城新聞を読んで、不思議に感じた

からだ。新聞によれば、

27日、「関東地方の近親者が来るまで延命してほしい」

28日、「かわいそうだから呼吸器を外してほしい」

呼吸器を外して。30分後に死亡したそうだ。

県警は刑事処分を求めないとの意見を付けて、殺人容疑で医師を書類送検したそうだ。

判断が和歌山地検に委ねられたそうだ。

また、熊本大学大学院の教授が、「患者や家族が望んでも延命中止ができない状況は

おなしい云々」とコメントしたそうだ。

紀北分院の副院長が「明らかな医療過誤があるとは思っていない」と述べたそうだ。

以上のような記事を読んで、感心したのは、

1)分院長の認識では、医療過誤と殺人をごちゃごちゃにしている。

医療過誤とは、過失によって患者が死んだ場合で、送検されるにしても過失致死だろう。

殺人は殺意を持って人を殺した場合で、事故や過失で殺した場合と違うのではないか。

逆説的にとれば、分院長はうかつにも、過失ではなく、殺人と認めたということか。

これから推測するに、脳死判定がなされていなかったことを暴露したのだろうか。

これでは、助教授が可哀想だが、システムとしての脳死判定を実施してないのだろう。

記事も、読み方、取り方によるが、自発呼吸の確認を親族の前で実施したように書かれている。

そのまま書くと

脳死を調べる自発呼吸の有無を確認するためとして同日夜呼吸器を外した」

また、脳死判定って確か時間を措き、何回か実施し、複数の医者で総合判断するはずだから、

時間的にも早過ぎるようにも思う。

システムとしての脳死判定を実施していたのなら、呼吸器を外すことを当初なぜ断ったのだろう。

堂々と外せばよいではないか。

更には、27日の家族の依頼は、患者が生きているという判断と推測するが違うのか?。

この時点で脳死していたのなら、延命と云う言葉に違和感を感じるのだ。

28日の申し出も、死んでいるのなら可哀想もくそもないだろう。

しかし、変わった家族だと思う。

臨終へ立会いたいという気持ちも分かるが、死につつある人に付き添うということだと考える

と、死んでる人への臨終への立会いとはこれ如何にだ。

責任逃れという点ではわかるが、刑事処分を求めないなら、なぜ送検するのか全く分からん。

下駄を検察に預けたなら、検察も裁判所に下駄を預けるのが筋だろう。

有罪か無罪かを決めるのが裁判所であるならばだが。

教授のコメントも論外だ。