HIGASHIMURATA’s blog

東村田昭の備忘録

知り合いが社長に

哀れを感じる、自分にだが。

産経新聞(正しくは茨城新聞だった)だったかで、小沢幹事長不起訴を見たその下に、社長昇格の記事があり驚いた。

副社長になっていたのも知らなかった。

そんなに優秀だとは感じなかったが、人当たりは良かった。

入社当時、上長だった主任が、主任技師になり、異動、上長はそこの部長、工場長、副社長、

副会長、その後、日立マクセルだったかの会長になったが、私から見ればおかしな人だった。

その人の下で、確か副工場長にまでなったので、人付き合いは上手いのだろう。

私は主任とちょこちょこ衝突、工場長時代には、検査部が驚く例外規定を認めさせたし、

彼等が開発する製品にも横車を入れてしまった。

今となれば、その横車が正しいのだが、当時は非常識。

主任も今回社長になった者も東大工学部卒、先輩後輩なのだろう。

当方は4流大卒、ぶんぶんうるさかっただろう。

色々、いちゃもんつけたから。

それも横車つきで。

当時は、重電機工場が意気盛んで、そちらのエライサンに後押し、横車を押してもらったのだ。

そうそう、そこの工場の研究発表会に席上討論者として呼ばれ、何を発言してもよいという

条件で引き受けたのだが、そこの工場長だったかと議論になり、怒らせてしまったのだ。

席上討論を頼んだ部長が謝りにいった上に、話が工場が違う私の上長の部長、

課長にまで来て、課長が真っ青。

部長はほっとけという判断で、お咎めなしですんだ。

部長は東大工学部卒、課長は3流大学卒、学閥なのだろう、部長が落ち着いていたのは。

やがて、怒った工場長が社長になり、またまた現地事故処理で怒らせてしまった。

これは此方にもミスがあり仕方がないのだが、ミスとは飛行機の時間に間に合わないという

ので、現地所長への報告を割愛して帰ってしまったのだ。

入社当時、上長だった企画員は、輸出物件で大失敗をしながらも関連会社の社長になったの

だから、私もどこかの社長になっていてもおかしくはないのだが。

輸出物件の責任を取らされたのは、副工場長に昇格していた部長と部長、主任技師になっていた

企画員はお咎めなし。

この時、私にも英文設計書を作れという要求が来たのだが、当時、新製品開発中で断わって

しまった。断わったのは私だけでなく、3馬鹿トリオと比喩されていた3人。

代表して断わった主任技師はすごい製品完成直後に左遷、3人は部長以上にはならなかったので、

敬遠されたのだろう。当然、3人もおいおい社外に飛ばされたけど。

4流大卒には学閥もなし、今やボイラーマンをやっている始末だ。

サラリーマンに必要なのは、人付き合い、ゴマすりとイエスマン的体質。

気付いた時は遅かった。

3馬鹿トリオの今は不明だが、4年前は

1人;ボイラーマン(私)

1人;ハローワークの相談員、職探しで世話になったのだ

1人;医療機器会社の副本部長、会長が東大卒で若い頃の上長、彼も東大卒なので呼んだそうだ

彼が社長になるのだから、私も東大でも出ていたら、専務ぐらいにはなったかも。

3人とも情熱的な恋愛結婚、ここから外れているかな。